自閉的世界で生きる

社会不適合者の主観的世界を綴っています

たったひとつの望み

社会のシステムに適応しようとすればするほど自分が死んでいく

私が私ではいられなくなる

私でいたいと願えば願うほど社会から疎外されていく

ありのままの私は誰とも繋がりを持てない

でも、一人ぼっちは怖くない

誰かと一緒にいる時の方が孤独を感じるから

人と自分を比較しても心が貧しくなるだけ

こんなにも恵まれているのに何もかも見えなくなってしまう

私は私のままでいたい

望みはただそれだけ

私が私のままで生きられる方法をどうか教えて

与えられた才能を活かして生きる道

自分にできる事って何だろう?本当にやりたい事って何だろう?

誰もがそれぞれ違う才能を与えられて生まれてくる。それを活かして活躍している人たちもいれば、まだ発揮できずに内に秘めている人たちもいる。
私は後者だ。本当にやりたい事がまだ見つからない。何かやってみたいなと思う事が頭に浮かんでも、もう既にそれをやっている人がいるのなら自分がこれから始める意味はどのくらいあるのかと考えてしまう。
真似事は嫌いだし二番煎じじゃつまらないから。きっと理想が高いのだと思う。その理想には届きそうもないと気付いた時、やる気が削がれて挑戦する前に諦めてしまう癖がある。時間が無いとか面倒くさいとかお金が掛かるとか…そんな言い訳をして、いつもそうやって可能性を自ら潰してきたのかも知れないな。

好きなものは昔から変わっていない。きっとこれからも変わらない。『好き』という気持ちはとても純粋なエネルギーだ。それを信じて一歩踏み出せるかが鍵なんだろうな。
ひと昔前までは難しかったけど今は好きな事を仕事にできる時代になりつつあると感じている。『好きな事』と言うと楽をしてお金儲けをすることだと考える人がいるけれど、そうではない。情熱を持って各々が与えられた才能を十分に発揮できる仕事のことだ。

私が昔から変わらない好きな事、それは…感動して心が打ち震える瞬間。美しいものに出逢った時、素直に美しいと感じられる喜び。その瞬間は全てのしがらみから解放されたように自由で無垢な気持ちになれる。心から幸せだな、生きてて良かったなって感じられるんだ。
だけどいつもそれだけで満たされた気分になってしまって、その感動を誰かに伝えたいとか一緒に共感して貰いたいという思いには至らない。ここが私に欠けている部分。意識が外側に向かず一人で自己満足して自己完結で終わってしまう。

それではいけないのだろうか?
どうすれば内側の世界と外側の世界を繋ぐことが出来るのだろう?

すべての人が好きな分野や与えられた才能を活かして他者や世の中の役に立つ事が出来たならどんなに素晴らしいことだろう。
現実は難しい問題が多くあるけれど、そんな未来が来るのを願って止まない。

意味のないこだわり行動

私には特別な意味を持たないこだわりが沢山あっていつも同じような行動パターンで生活をしている。
例えば、歯の磨き方や入浴の仕方にも順番があって毎回同じやり方を繰り返す。歯磨きは20〜30分、入浴は1時間以上掛かるのでそれだけで結構疲れてしまう。時々面倒で嫌になるけど適当に済ませることがどうしても出来ない。
何事も中途半端が嫌いでやり始めたら気が済むまで徹底的にやる完璧主義な面がある一方、気分が乗らない時は全く何もしないという両極端なところがある。適当にやるくらいなら最初からやらない方がマシだと思ってしまう。

特に掃除は厄介だ。やり始めると色んな所の汚れが気になり出してもはや終わりが見えない。ほうきを握り締めた手が痛くなる。でもそれは綺麗好きとも潔癖症とも違う。病院の心理カウンセラーには強迫性障害だと言われた事もあった。
しかし普段はあまり掃除は得意ではない。せっかく綺麗にしてもまたすぐに汚れてしまうから。どれだけ頑張ってもその努力は報われず永遠に汚れと闘い続けなければいけないのかと思うとやる気なんて無くなってしまう。もうどうでも良くなる。
気が付くと床にホコリが溜まっている。重い腰を上げて掃除を始める。完璧主義のスイッチがON!我を忘れて掃除に没頭する。そうなったらもう誰にも止められない。

そんな姿が周りの人たちには『頑張り屋さん』に見える時があるらしいのだが、それは違う。何かの目標を達成する為に努力している訳ではないからだ。いつも頭の中にあるのは早く作業を終わらせたい、ムダな労力は使いたくないということ。それなのに体はプログラミングされたロボットのように完璧を求めて動き続ける。私の意思は尊重されない。
まるでお掃除ロボットのルンバみたいだ。いや、もしかするとヤツの方がもう少し融通が利くかも知れない…。

融通が利かない旧型ロボの私は、作業に集中している時に話し掛けられたり中断させられたりするとイライラしてしまう。
一つの事にしか集中出来ないので周りを見る余裕など全く無くなる。私の場合は何かに集中しているか、ぼーっと考え事をしているかのどちらかなので結局いつも人と会話をする余裕なんて無い。その為、無愛想だったり機嫌が悪かったり会話が噛み合わなかったりする。相手側からすれば「嫌われているのかも…」などと思われて余計な誤解を与えかねない。

正直そういうのも面倒だなと思う。だから人との関わりは間接的な方が楽だし合っていると感じる。その方が穏やかな関係性を保つことが出来るから。
このこだわりに捕らわれているうちは誰かと一緒に時間と空間を共有するのは難しい課題だ。

無知と未知

身体的な障害を持っていても身体能力が高い人がいるように、知的障害を持つ(ように見える)人の中にも知能が高い人はいるんだろうな。ただそれを外に向けて表現するのが難しいだけなんじゃないかと思う。
本当に知的な人とは、自分の能力をひけらかしたり振りかざしたりしない人のことを言うんだろうな。

この物質世界は薄っぺらく表面的だ。目に見えないものは無いのと同じ。気持ちは言葉にしなければ伝わらない。コミュニケーションが上手く取れない人のことを心が無いと言う人までいる。

本当にそうだろうか?

目には見えなくても存在しているものがあるかも知れないし、会話を交わすのが難しい人たちや喋れない動植物たちも本当はたくさんの言葉を持っているのにただ喋らないだけかも知れない。
そういう者たちの方が私たちよりもずっと深いレベルで物事を感じ取っているのかも知れない。最近はそんな事をよく考える。


私たちはごく一部の世界しか見えていなくて、その限られた世界の中で生きている。自分がいちばん正しいと信じながら。
だから自分と違う意見はなかなか受け入れられないし、価値観のズレから人間関係が拗れたりする。

私が信じているものは本当に正しいと言えるだろうか?常識って何だろう?当たり前って何だろう?普通って何だろう?

今まで頑丈で立派な城に見えていたものが実際は砂の城だったと気付く。それは脆く触れたら簡単に崩れてしまう。私たちが信じているものなんてきっとその程度のもの。
そんなちっぽけな物を守る為の争いは今日も終わらない。

そんなのはもういい加減終わりにしたい。
まだ見えない世界はすぐ目の前にあるのかも知れないから。

セクシュアリティと恋愛感情

肉体に性別はあるが魂に性別は無い。この肉体は借り物でいずれ返さなければいけない時が必ず来る。死を迎えて体から解き放たれた後も私は私で在り続ける。その時の私に性別はもう存在しない。

私の生物学上の性別は女性だ。しかし心の性は中性に近い。『無性』と言う方が正しいかも知れない。女性にも男性にも当てはまらないと感じている。それでも体の違和感はあまり無い。性別に捕らわれない生き方ができたら良いなと思う。

惹かれるタイプは中性的な雰囲気の人。でも恋愛感情を含んでいるのかはよくわからない。それに近い感覚はあるけれど、相手に対して何かを求めている訳ではないから。
芸術作品を愛でるようにその人の持つ美しさに心が惹きつけられる感じ。初めは外見とオーラと言うか全体の空気感に惹かれて、徐々に内面や仕草なんかも好きになって愛おしく感じるようになる。尊敬と憧れの気持ちも湧いてくる。だけどそれ以上は無い。もっと近付きたいとか特別な関係になりたいとは思わない。
ノンセクシュアルに似ている部分があるけど違うような気もする。私の場合は恋愛感情と言うよりも才能に惚れる感覚に近い。そこから恋愛に発展することも有り得るけど、親しい間柄になるより一定の距離感を保っていたい。相手に触れないのは私なりの敬意の表れだからもしそれで離れて行くのならそれまでだと思う。

性的な描写が苦手で恋愛物の作品はほとんど見ない。他人の恋愛事情にも興味が無いし、そういう話題にはついて行けない。そもそも人にあまり興味が無いから好きになるのも稀だし、好きになったとしても自分から行動を起こしたり求めることは無い。
私は欲求を外に向ける事が難しいのだと思う。だから逆に求められるとどうしたら良いのかわからなくて困惑する。逃げ出したくなる。関わりを避けようとしてしまう。
人を愛するのも人から愛されるのも私にとっては恐いものだから。

音楽と常同行動

常同行動とは、同じ行動や動作など一見意味の無いような動作を何度も繰り返すこと。自閉症の人に見られることがあるという。

私の場合は座った状態で音楽を聴きながら体を左右に揺らす。テンポに合わせて揺れるから例えるなら人間メトロノームって感じ。そうするとリズムが取りやすくなる。
自閉症に限らず音楽を聴いていると体を動かしたくなるという人は多いのでは?音は振動だから、その揺らぎに合わせて動くと音と自分が一体化しているような感覚になって心地良く感じるのだと思う。
ダンスなど踊りが出来たら良いのだけど、なにせ運動神経がよろしくないものだから…ついゆらゆらと横揺れしてしまう。今では癖のようなもの。

ずっと昔の幼少時からしていた。アニメのテーマ曲に合わせて揺れながら歌っていた記憶がある。周りから「うるさい」「ジャマだ」と怒られたこともあった。保育園生くらいになるとその行動がどうやら『普通』ではないらしいと気付き始めて人前ではしなくなる。

私が5歳の時に祖母が亡くなった。初めて身近な人の死に直面して心が落ち着かずどうすれば良いのかもわからなくて、ただ泣きながら体を揺らし続けていた。

同じ行動を繰り返し取りたがるのは気持ちを落ち着かせるためだ。不安な時、イライラしている時、焦燥感に駆られた時によく現れる。揺れながら歌を歌っているとそれらから解放された気分になって心が落ち着く。気が付いたら何時間も経っていたりする。音楽のリズムが心地良いとウトウトしてきてテーブルに頭を打ちつけるなんて事もしばしばある。

頭を打ちつけると言えば、幼少時は自ら床にガンガンと頭を打ちつけていた記憶がある。親もそれを覚えていてなぜそんな事をするのかと心配していたようだ。
これも不安から来る行動で、自分なりに一生懸命解消しようとしていた証拠だ。周りからは自傷行為に見えるかも知れないけれど私は自分を傷付けたくてやっていた訳ではない。その逆で本当は不安から自分を守りたくて、でもどうすればその不安から逃れられるのかがわからなくて、そんな気持ちを表現する術すら持ち合わせていなかった故の行動だった。

『普通』であれば周りに甘えたり外部に助けを求めるものではないだろうか。私はそれが出来なかったのだと思う。不安な気持ちをどのように伝えれば良いのかがわからなかった。
それは今もわからない。そもそも誰かに伝えなければいけない事なのかが疑問だ。外部に求めなくても自己解決する方法はたくさんある。その一つが常同行動なんだ。
体を揺らしている時、私は自分自身と闘っている。不安の闇から逃れるために音の世界に身を委ねる。そうすれば不安なんてすーっと無くなっていくから。

もしあなたの近くにそんな人がいたらどうかそっとしてあげてください。おかしな行動に見えるかも知れないけれど、けしておかしくなった訳ではありません。心配いらないので無理に制止しようとしないで欲しいのです。本人や周囲の状況に注意して見守ることは必要だと思います。

死にながら生きる

闇の中 光が見えなくて 立ち止まる

ここがどこか わからない

どこへ向かうのかも わからない

一人立ち尽くし 疲れてしゃがみ込む

目を瞑り 耳を塞ぐ

何も見えない 何も聞こえない

それでも心は叫んでいる


「死にたい」

「死にたくない」

「もう終わりにしたい」

「本当は助けて欲しい」

「あとどれくらい頑張れば楽になれるの」




『死』に近付くと『生』が見えてくる


絶望の中にある 希望

その光はまだ 小さいから

もっと 近付きたい

死に近付きたい

生きたいから 死にたくなるの

死んだら 次はちゃんと生きられるかな